増鏡・作者不明

増鏡:作者不詳
上巻第二新島守 朗読:田中洋子

「増鏡」解説

「増鏡」は平安時代に書かれた「大鏡」の流れを汲む「かな歴史物語」の一つ。「大鏡」「水鏡」「増鏡」「今鏡」のこの四つの礫物語は「四鏡」と言われ、貴族的な見方から見た歴史物語として有名です。「増鏡」は後鳥羽天皇の誕生(1180年)から後醍醐天皇の建武の中興(1333)までを描いています。作者ははっきりしていませんが、北朝の大貴族であり文学の大立者である二条良基とする説、「徒然草」を書いた兼好だとする説などが主な作者説です。
 取り上げた箇所は、前半の主人公である後鳥羽院が承久の変に敗れた後、隠岐島に流された失意の姿を描いたところです。「沖の波風心して吹け』といかにも帝王らしい歌を読んでもいますが、ここに載せられた和歌にはどれも、寂しさが漂っているようです。
 佐渡院とは、後鳥羽院の息子であり、父と同じく強い意志を持ち、主戦派であった順徳院です。彼は父と同じ資質を持ち、和歌もうまく、宮中の有職故実などにも詳しく「禁秘抄」などの著書も残しています。もう会うこともできない親子の思いが切ないです。
 後鳥羽院は隠岐島で、「新古今和歌集」の再編集にも手をつけています。不仲になった藤原定家が京都で「将軍(実朝)の歌の師匠」として、歌壇に君臨しているのを横目に、セっせと「新古今集」を改訂している院の歌への思いが、ここに挙げた数首の和歌からもうかがうことができるでしょう。配流されながらも、法皇として、和歌の名手として誇り高くあろうとした後鳥羽院の姿が描き出されている箇所です。

口語訳

 (後鳥羽院の)いらっしゃる所は、人里離れ、村里から遠い島の中である。海からは少し入っていて、山陰に片寄せて、大きな岩が聳え立っているのを頼りにして、松の柱に藁葺きの廊など、形ばかりで質素な作りである。本当に「柴の庵のただしばし」(「いづくにも住まれずはただ住まであらん柴の庵のしばしなる世に」 西行)という風で、一時的なものと思われる建物であるけれど、そうは言っても上品に由緒ありげにお作りになった。水無瀬の御殿をお思い出しになるとまるで夢だったようにお想いになる。はるばるとみはるかす海の眺めは「二千里の外(二千里の外故人の心)」の思いもし尽くされるような気持ちがするのも、今更のような感じがする。潮風が大層ひどく吹いてくるのをお聞きになって
   われこそは新島守りよ隠岐の海のあらき波風心して吹け
   同じ世に又すみの江の月や見んけふこそよそに隠岐の島守り
  (同じこの世でまた、住吉の澄んだ月を見ることがあろうか、今日はそれをよそに隠岐の島守りとなっているのだが)
 一年たった。所々、浦々と別れてしまった御親子のことをお想いになり嘆くばかりである。佐渡院(順徳上皇)は明け暮れ仏へのお勤めをこととなさっているが、やはり、そうは言っても(このままではないだろう)とお思いになっていた。隠岐島では、浦から遠くにはるばるとずっと霞んでいる空を物思いに耽ってご覧になりながら、昔のことを、いろいろとお思い出しになると、未来もわからない御涙ばかりが止まらない。
  うらやましながき日影の春にあひて塩汲む海女も袖やほすらん
  (羨ましいことだ。太陽の光が長くなった春にあたって、塩を汲む海女も袖を干しているだろうに、私の袖は乾かないのだ)
  夏になって、茅葺きの軒先に、五月雨の(今の梅雨の雨)雫が乾いたところがないくらい落ちているのも、お見慣れになっていないお気持ちには、いつもと違う感じで珍しくお想いになる。
  あやめふく茅が軒ばに風すぎてしどろに落つる村雨のつゆ
  (あやめを吹いているような茅葺きの軒に風が吹いていって、しきりに落ちる村雨のつゆであるよ)
  初秋風が吹いて、なんとなく物悲しく涙がまさってくるのに、どうしようもなくお気持ちが乱れるのだった

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