紫式部日記・作品解説

作・紫式部
作られた年代・寛弘5年(1008年)秋から寛弘7年1010年)正月まで

「紫式部日記」はそのような題名のもと書かれたわけではありません。彼女が心のまま回記しておいた思い出話を、まとめたものでしょう。ですから「日記」と言いながら、今のものの用意日付を持って書いてあるわけでも、時を追って書いているわけでもありません。時には晴れやかな行事の有り様を、宮仕えの日々の出来事、そしてここのように、退出して実家に帰った時の思いなどを筆のままに書き記したものです。

 年代は寛弘5年あたり(1008年)。ちなみに彼女の主人、彰子中宮の父である藤原道長が三人の后を自分の娘から出した満足を「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という歌を詠んだのが1016年。道長家がピークに上り詰めるその上り調子の真っ最中に描かれています。この日記にも書かれていますように、紫式部の物語制作活動には道長の手厚い保護がありました。本来でしたら、中宮彰子や道長への礼讃で埋め尽くされても良い記録です。でも、そこには孤独な知的女性の姿も描かれているのです。

 当時は「宮仕え」に出る女性、それは当然、中・下級ではありますが、貴族の娘たちなのですが、そのような女性たちを下に見る風潮がありました。今ではバリバリのキャリアウーマンなのですが、一昔前までは「お勤めなの?」といわゆるセレブの家では少し難点と数えていたことがありました。あれと同じです。教養と機転なしには務まらない職場ですが、本当のセレブではないことのあかしなのでした。紫式部は未亡人になってから、道長の今世によって彰子のもとに上がったのですが、自分では劣等感を抱いていました。それはライバルである清少納言も同様でした。そのようなコンプレックスがここでも現れています。

 彰子中宮の御殿に比べると見る甲斐もない我が家、そこに籠もって彼女は宮仕え以後疎遠になってしまった友との文通を思い出します。でも、その根底には中宮のそばで確固とした地位を築いている自分に対する自信もほの見えている感じがします。

 この日記には彼女のそのような境遇を同じくするライバルたち、清少納言、和泉式部、赤染右衛門らに対する評価も出てきます。それを読むと、鋭い人間観察力に唸らされますが同時に「この人とは友達になりたくないな」とも思ってしまいます。その冷徹な観察眼が彼女に「源氏物語」を欠かせたのでしょうが、やはり、友達としてはこちらが二の足を踏んでしまうところがあります。それが紫式部という、1000年以上前に生きた女性を眼前に見るかのように示している、この「日記」の魅力なのでしょう。

 それにしても文学って怖いですね。才女の胸の奥を私たちにあわらにしてしまうのですから。

(記・田中洋子)

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