第一章 道徳体系としての武士道
武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。
それは古代の徳が乾からびた標本となって、わが国の歴史の措葉集中に保存せられてい るのではない。それは今なおわれわれの間における力と美との活ける対象である。それは なんら手に触れうべき形態を取らないけれども、それにかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、 われわれをして今なおその力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。それを生みかつ育てた社会状態は消え失せてすでに久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなおわれわ れの上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死 にし後にも生き残って、今なおわれわれの道徳の道を照らしている。
ヨーロッパにおいてこれと姉妹たる騎士道が死して顧みられざりしとき、ひとりバークはその棺の上にかの周知の感動すべき讃辞を発した。 いま彼バークの国語[英語]をもつてこの問題についての考察を述べることは、私の愉快とするところである。
私が大ざっぱにシヴァリー Chivalry と訳した日本語は、その原語においては騎士道 というよりも多くの含蓄がある。ブシドウは字義的には武士道、すなわち武士がその職業においてまた日常生活において守るべき道を意味する。一言にすれば「武士の掟」、すな わち武人階級の身分に伴う義務である。かく字義を明らかにした以上、 これから原語でこの語を用うることを許してもらいたい。原語を使用することはまた別の理由からも都合がよい。このように截然として独自的であり、特異なる考え方と性格の型を生み出し、かつこれほど地方的なる教訓は、その特殊性の徽章を面上に帯びておらねばならない。 それゆえ、民族的特性をきわめて顕著に表現する二、三の語は国民的の音色をもつのであって、最善の翻訳者といえどもその真を写しだすことは困難であり、場合によっては、積極的に 不当不正を加えることさえなきを保しがたい。
武士道は上述のごとく道徳的原理の掟であって、武士が守るべきことを要求されたるも の、もしくは教えられたるものである。それは成文法ではない。せいぜい、口伝により、 もしくは数人の有名なる武士もしくは学者の筆によって伝えられたるわずかの格言がある にすぎない。むしろそれは語られず書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法たることが 多い。不言不文であるだけ、実行によっていっそう力強き効力を認められているのである。 それは、いかに有能なりといえども一人の人の頭脳の創造ではなく、またいかに著名なり といえども一人の人物の生涯に基礎するものではなく、数十年数百年にわたる武士の生活の有機的発達である。
道徳史上における武士道の地位は、おそらく政治史上におけるイギリス憲法の地位と同じであろう。しかも武士道には、大憲章もしくは人身逮捕令に比較すべきものさえな いのである。十七世紀初めにおいて武家諸法度が制定せられたことは事実である、しかし 武家諸法度十三ヵ条はおおむね婚姻、居城、徒党等に関するものであって、教訓的規則は ほんのわずかだけ触れられているにすぎない。それゆえにわれわれは明確なる時と場所と を指して、「ここに泉の源がある」と言うことができない。ただそれは封建時代において 自覚せられたものであるから、時に関する限りその起源は封建制と同一であると見てよか ろう。しかしながら封建制そのものが多くの糸によって織り成されているのであり、武士 道もその錯綜せる性質を享けている。
ヨーロッパにおけるがごとく日本においてもまた、封建制が公式に始まったとき、専門 的なる武士の階級が自然に勢力を得てきた。これらはサムライとして知られた。その字義 は英語の古語のクニヒト cniht (knecht, knight) と同じく、衛士もしくは従者を意味する ものであって、カエサルがアクィタニアに存在すると録したるソルデュリイ soldurii、も しくはタキトゥスによればゲルマンの首長に随従したるコミタティ comitati、もしくは さらに後世に比を求むればヨーロッパ中世史に現わるるミリテス・メディイ milites medii、とその性質が似通っている。
漢字の「武家」もしくは「武士」という語も普通に用いられた。彼らは特権階級であっ て、元来は戦闘を職業とせる粗野な素性であったに違いない。この階級は、長期間にわた り絶えざる戦闘のくり返されているうちに、最も勇敢な、最も冒険的な者の中から自然に徴募せられたのであり、しかして淘汰の過程の進行するにともない怯懦柔弱の輩は捨て られ、これがサムライの家族と階級とを形成したのである。大なる名誉と大なる特権と、 したがってこれにともなう大なる責任とをもつに至り、彼らはただちに行動の共通規準の 必要を感じた。ことに彼らは常に交戦者たる立場にあり、かつ異なる氏に属するものであ ったから、その必要はいっそう大であった。あたかも医者が医者仲間の競争をば職業的礼 儀によって制限するごとく、また弁護士が作法を破ったときは査問会に出なければならぬ ごとく、武士もまた彼らの不行跡についての最終審判を受くべき何かの規準がなければな らなかった。
戦闘におけるフェア・プレイ! 野蛮と小児らしさのこの原始的なる感覚のうちに、は なはだ豊かなる道徳の萌芽が存している。これはあらゆる文武の徳の根本ではないか? 「小さい子をいじめず、大きな子に背を向けなかった者、という名を後に残したい」と言った、小イギリス人トム・ブラウンの子供らしい願いを聞いてわれわれはほほえむ(あたかもわれわれがそんな願いをいだく年輩を通り過ぎてしまったかのように!)。けれどもこの願いこそ、その上に偉大なる規模の道徳的建築を建てうべき隅の首石であることを、 誰かしらないであろうか。最も柔和でありかつ最も平和を愛する宗教でさえこの願求を裏書きすると私が言えば、それは言い過ぎであろうか。トムの願いの基礎の上に、イギリスの偉大は大半打ち建てられたのである。しかして武士道の立つ礎石もこれより小なるもの でなきことを、われわれはやがて発見するであろう。
「卑劣」といい「臆病」というは、健全にして単純なる性質の者に対する最悪の侮辱の言 葉である。少年はこの観念をもって生涯を始める。武士もまたしかり。しかしながら生涯 がより大となり、その関係が多方面となるや、初期の信念はおのれを是認し、満足し、発展せしむるため、より高き権威ならびにより合理的なる淵源による確認を求める。もし戦闘の規律が行なわれただけであって、より高き道徳の支持を受けることがなかったとすれ ば、武士の理想は武士道に遥か及ばざるものに堕したであろう。ヨーロッパにおいてはキ リスト教が、その解釈上騎士道に都合のよき譲歩を認めたにかかわらず、これに霊的素材 を注入した。「宗教と戦争と名誉は、完全なるキリスト教武士の三つの魂である」とラマルティーヌは言っている。日本においても武士道の淵源たるものがいくつかあったのである。
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